目次
【1章.小泉八雲の出生と来日】
【2章.日本での小泉八雲】
【3章・日本語研究をした王堂チェンバレン】
【4章・弟ヒューストンとの交流】

【1章.小泉八雲の出生と来日】

 島根に『古事記』の精神が宿っているという視点を持っていたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)。彼が日本に興味を持ったのも『古事記』に興味を持てたもの、その要因の一つに彼の生まれたギリシャと類似点を見出したことがあるようだ。そんな日本とはジャズの発祥地とも言われるニューオリンズで出会ったようだ。当時は世界初の世界一周団体旅行が始まったり、日本の情報もさまざまな視点から入ってきていたようだ。

■➀出生地と日本の親近性■

1850年、当時はイギリスの保護領であったレフカダ島(現在ギリシアに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父とギリシア人の母のもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いたようだ。※4

『古事記』の舞台である出雲地方(1年3ヵ月の滞在)は、ハーンにとって、生まれ故郷のギリシャを思わせる神々が集う場所であったようだ。松江を「ハーンにとって、まだ西洋文明がその世界においてとうに駆逐したはずの異端の神々が住み給う聖なる都であった」と述べているらしい。また自然や人生を楽しく謳歌するという点でいえば、日本人の魂は、不思議と古代ギリシア人の精神によく似ているようだ。

 他にも後にハーンが初めて読む日本人の英語論文が伊沢修二の『古代ギリシャ音楽との関連より見たる日本音楽の歴史』※5もギリシャと日本を結びつけるものがあったのではないか。

 ハーンは生母がギリシア人であったということ以外、生まれてすぐに父の西インドへの転属の関係でアイルランドに引っ越しているため、ギリシア文化のあいだに実質的なつながりはほとんど存在しないが、魂は父を無縁とし、ギリシャ的な人間としたようだ。※2

 たまたま赴任した地で出会った女性と結婚し、文化の違う自国につれて帰る事は、当時としてはかなり酷な事であったようである(しかも父は西インドに赴任している)。そのため、母は1854年には精神を病み、離婚が成立している。そのためもあって、ハーンは生涯において父を嫌悪している。※4

しかしそのお陰で、母親から受け継いだ彼の東洋(ギリシア)的な側面が、彼を「西洋(アイルランド)至上主義」的な考えから遠ざけ、西洋的な物事の見方に依存せずに済んだようだ。父親の存在やキリスト教を含む「西洋」への嫌悪のお陰でもある。※2

■②ニューオリンズ時代■

1869年には、成長し新しい人生を模索したハーンは、アメリカ合衆国へ渡り、シンシナティにいき新聞記者となる。

そして1877年には、シンシナティで出会った黒人女性との離婚や公害による目への悪影響を避け、ニューオリンズへ行く。新聞の編集などにも携わるが、食堂「不景気屋」(安い価格で食べられる料理店)を経営する一方、クレオール料理などの料理本も一冊書いている。しかし、共同経営した仲間がお金を持ち出したため、食堂は失敗。※4

1882年には、ダイムズ・デモクラット社の文芸部長になり、クレオール文化などの記事を書いたようだ。※4ニューオリンズはジャズの発祥の地であり、このジャズの胎動期とも言える音楽もハーンは、聞いていたようだ。

 この時期は中国怪談やクレオール伝説の研究にも没頭したようだ。

 また、スペンサーへの崇拝が始まったのもこの頃。1885年に海軍大尉クロスビーの奨めでスペンサーの著述を精読し、特に『第一原理』に全面的に傾倒している。また、1886年にスペンサーを読んだ感想を手紙で「彼は曖昧で満ちているが大きな疑念の全能的慰めとなる」と書いている。※6

 日本においてもスペンサーの崇拝が続いているため、ハーンにとってはスペンサーは西洋的な物の見方として排していないようだ。スペンサーは『日本一つの試論』などの著作では宗教の古来からの発達を考察する視点や、他の寄稿文などではキリスト教を至上としない不可知論などでハーンがとりあげていたり、東洋的な価値観も包み込む融和的な視点と考えていたのではないか。

■③日本について書かれた本の考察■

 1883年5月27日に『ダイムズ・デモクラット』紙の無署名コラムに『日本の誌瞥見』(A Peep at Japanese poety)という記事があり、これは同紙の文芸部長であるハーンのものと推定する向きがある。これに使ったと思われる資料を検証したところ、執筆するために参考にした書物は以下のようだ。

・Griffis, William Elliot, Japanese fairy world: studies from the Wonder-Love of Japan, Schenestady, N.Y.1880

・Lanman, Charles, Leading men of Japan: with an historical summary of the Empire, Boston,D.Lothorop

・Leon de Rosny『La civilization japonaise』1883、『Les peoples orientaux』(日本詞詩集)1883、『Anthologie japonaise』1871、『Traite de l’eudcation des vers a soie au Japon』1868➡日本学者レオン・ドーロニーには深く傾倒していたようだ。

・他Hir et Ranjhan, Turrenttini Francoisなどを参照している。

 ただ、これらの参考資料は、来日時にアメリカに残してきているようだ。※3

 他にもニューオリンズ時代にはピエール・ロティというフランス海軍であり作家である人の作品『お菊さん』(1886年)などを読み傾倒していた。月極めで「結婚」(東洋の港町へ到着して次の船出まで「結婚」)し作品化するのが作風で、この時点ではハーンもそのようなことへの憧れもあったよう。直接ロティと文通もしていたという。※5

■④万国博覧会■

1884年、ニューオリンズで開催された万国博覧会で日本の様々な文物に触れ、また農商務省の服部一三と出会ってそれらの文物の説明を受けたことが日本行きの動機になったというのが通説のようだ。※3

 また伊沢修二の『古代ギリシャ音楽との関連より見たる日本音楽の歴史』を読み、これが初めて読んだ日本人の英語論文となる。※5

 この万国博覧会には事務官として高峰譲吉が派遣されていて、高峰譲吉とも接点があるとされることもあるらしいが、実質的な接点の史料はないようだ。高峰譲吉はこの万国博覧会のニューオリンズにいた日本の高官と結婚させることを目論んでいた夫婦(『風と共に去りぬ』的な南北の出会いをして結婚をしている)のもてなしを受け、キャロライン・ヒッチと婚約している。そしてアメリカに戻ってくることを約束してキャロラインを伴い、帰国し1886年には専売特許局局長代理となる。特許局局長は高橋是清だった。高橋是清は欧米視察に出て高峰譲吉に留守を任せている。

 高橋是清は、廃校寸前だった神田の共立学校を東大予備門への進学校へも再起することもしており、少し前だが1883年に共立学校に入学した南方熊楠(正岡子規・秋山真之もいた)も高橋是清から英語の授業を受けている。

 南方熊楠は1887年に渡米しミシガン大学など(自由民権運動に敗れたものも多くアメリカに来ていたよう)に関わりフロリダなどに行き、高峰譲吉も1890年に渡米し麹を使ったウイスキー作りを考案している。

 アメリカ時代、ハーパー社の美術主任ウィリアム・パットンから日本学者B・H・チェンバレン(33歳)が英訳した『A Translation of the ‘Ko-Ji-Ki’』(1883年)を読み、極東地に存在する多くの神話に魅了されたハーンは、本格的に日本行きをきめたようだ。※2

 一方で、1872年に世界初の世界一周団体旅行が始まり、世界一周熱が高まり、80日の世界一周旅行に挑んだ『コスモポリタン』誌のエリザベス・ビスランドがハーンと交流があり、帰国報告で「いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったか」を聞いたことも影響しているようである。※4

 そして、ニューヨークのハーパー社の現地特派員として横浜へ来日し、改めてこの著作を購入し、かなりの書き込みをしながら精読したことが知られている。そして、その契約をまもなく破棄し、日本に関する書物を著すため長期滞在を決意している。そして、彼が選んだ場所こそ、『古事記』の舞台島根県であった。※2

■⑤来日の決断と野心■

 松江には、古い文化や風習が根強く残っている裏日本の、神々が集う『古事記』の舞台である出雲地方へ向かう事で、他の外国人が見る事のなかった日本を発見できるという強い確信があったようだ。ハーンが来日するきっかけとなった英語版『古事記』を翻訳したチェンバレンなどは当時の大英帝国の知識人を意識した「進化論」的な見方からの「未開の地」に対する見聞としてイギリスなどの学会に向けて発言しなくては適切な評価を言えられないという縛りがあったが、ハーンはそういった束縛から完全に自由であり得たようだ。

 そのためハーンにとっては国生みという神話が「淫ら」(チェンバレンは翻訳する際ヴィクトリア時代の抑圧的な性の見方からラテン語に訳したりしたことと比較している)だとか、「未開の地」で古代に書かれた「訳の分からない話」(イギリスで主流な「進化論」的な古代の神話の見方と比較している)だという印象は見受けられない。※2

 ただし、ハーンは様々な語学が堪能だったチェンバレンと違って、ほとんど日本語が読めなかったようだ。※5

1889年11月、ハーンがハーパー社の特派員として来日直前、英語版『古事記』を読むきっかけを作った美術主任のパットン宛の手紙で「日本ほど人がよく歩いて調べた国について本を書こうと考えると、まるきり新しい事を発見することは望めません。…できるかぎり全く新しい方法で物事を考えてみることができるだけでしょう。…単なる観察者ではなく、普通の人々の日常生活に生活し、「彼らの考え方で考える」感じをもってほしいのです。」とあるようだ。※2

【2章.日本での小泉八雲】

 チェンバレンの英訳『古事記』を読んで来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、島根を精力的にフィールドワークし、現在も生き続ける『古事記』の世界を島根と通して処女作『知らぬ日本の面影』(1894年)で表現した。その後も意欲的に日本論に挑戦するとと共に、帝国大学で講義する頃には(アメリカ時代からの)もともとの怪談話などを書く作品が多くを占めるようになった。

■➀チェンバレンとの文通■

ハーンは、1890年8月松江に到着。

 アメリカ時代に読んだ英語版『古事記』の著者のチェンバレンとは、文通を日本に来てから密に行っていて、ハーンの島根での仕事も紹介したようだ。バジル・ホール・チェンバレンは、オールコックの後に駐日英国公使となったパークスになり多くの外交官が日本に滞在することになる時期に来日した人で、海兵学校で英語の教師をしながら本格的に日本語や日本文化を研究したため日本での名声も高く、教育意欲の高い島根の人からチェンバレンの訪問を望む声を多く、ハーンはチェンバレンにその声を伝え招いたものの、チェンバレン自身は杵築(出雲市)には来ることはなかった。

 チェンバレンからの仕事を紹介してもらった結果、松江での英語教師という職を斡旋のおかげでかろうじて得たに過ぎなかったようだ。

 松江・熊本時代のハーンはチェンバレンと密に文通を交わしているが、それはこの時代のハーンが知的な会話をできる仲間がいなかった寂しさと日本の知識の欠乏から夥しい手紙を送ったためのようだ。※5

■②ハーンが描いた島根■

 当時の出雲地方はハーンがそれまでに滞在した都市部(東京や横浜)とは異なり、豊かな自然が残っていた。ハーンが特に好んだ宍道湖のことを「青い湖水」と呼んでいる。

 

 日本で処女作『知らぬ日本の面影』(1894年)においては、Kojikiを精読したハーンが、彼が体験した実際の日本文化、日本社会にその世界を投影させ著したもののようだ。ハーンが足を踏み入れようとしているのは、大昔に書かれた『古事記』の舞台ではなく、過去から続く現在の『古事記』の舞台ではなく、過去から続く現在の『古事記』世界であったようだ。言い換えれば、「神話」を「現在」と切り離して考えるのではなく、「現在」の中に埋もれた『古事記』的要素をあぶり出し、表しているようだ。

 「神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における東洋研究者が、その拠り所を文献にのみ頼るからである。つまり、神道の歴史を著した書物や『古事記』『日本書紀』、あるいは「祝詞」、あるいは偉大な国学者である本居や平田の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の神髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中二あるものでもない。むしろ、国民の心の中に生きているのであり、…最高の信仰心の表れなのである。…したがって、神道をわかろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。なにしろ日本人の美意識も、芸術の才も、豪勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。」

時代は、ハーンを「夢想に耽るロマン主義的オリエンタリストの放浪者」とし、彼の描く日本は、実際には存在しない空想の世界であるとも評したようだ。


「「黄泉の国」については、あの世のことを描いた古代神話は数々あるけれど、これほど不可思議な物語を聞いたことがない。

出雲はとりわけ神々の国であり、今もなど伊邪那岐命と伊邪那美命を祀る、民族の揺籃の知である。その出雲において、神々の都とされる杵築に、古代信仰である偉大な神道の、日本最古の神社がある。」と書いている。

稲佐の浜…出雲大社の西にある海岸で、10月(神在月)に、全国の八百万の神々がまずこの浜へ降り立ち、出雲大社へと向かう浜として知られている。

「国引き」神話は『日本の面影』ではちょうど杵築(現出雲大社)への道のりの中に描かれているようだ。

「出雲の神様は…太い縄で四つの島(新羅・石川県辺りから)を出雲までお引き寄せになったのである。

最初に引き寄せた島が八百丹で、現在、杵築のある場所にあたる。二番目の島は狭田で、ここにある佐太神社では、毎年1回、全国の神々が杵築に参集なさった後、二度目の集いをされる。三番目は闇見の国で、今の島根群にあたる。四番目は、稲田を守る白い祈願のお守りが配られる美保神社のある、美保関である。

 それらの島々を、はるか海の彼方から引き寄せるために、出雲の神様は、太い縄を巨大な大山と佐比売山(三瓶山)にかけた。どちらの山にも」、今でもそのときの縄の後が残っているという。更に縄そのものは、その一部が夜見が浜(弓浜)という昔の細長い島や薗の長浜になった。」とある。

 実際、弓浜半島があり、宍道湖と中海を挟み、引佐の浜(薗の長浜)が細くあり、内側に三瓶山と大山がある。

 「国譲り」に触れていて、稲佐という言葉は、そのときの「否か諾か」という諾否を問う意味になっているのだ。ハーンの時代には人気の海水浴場ととなっていたようだ。

 因佐神社は力競べに勝った健御雷之男神が祀られている。

 千引の岩においては力競べをした建御名方神が指先で持ち上げたという巨大な岩のようだ。※2

後にチェンバレンは『日本事物誌』第五版(1905年)の「日本関係書」の項で、ハーンを『皇国』Mikado’s Empireグリフィスの次に読むべき重要な著作として紹介している。「1894『知られぬ日本の面影』1895『東の国から』1896『心』―細部における科学的正確さが、細部で柔和な華麗な文体。ハーンは誰よりも深く日本を愛するがゆえに、今日の日本を誰よりも深く理解し、…させる。」とあるよう。※5

■③スペンサーへの熱中と日本への帰化■

1891年5月30日『ジャパン・ウィークリ・メール』ハワード教授の帝大生向けの講演「キリスト;科学的メゾットによる審議」の記事においてハーバート・スペンサーのキリスト教と不可知論の議論に参加している。当初は『第一原理』から引用している。「unfamiliar Japan」の宗教文化の研究に没頭していた時であったようだ。7月にはスペンサーの『教育論』を入手している。※6

島根のフィールドワークを熱心に行っているが、スペンサーの哲学が文化の理解や考えの助けになったようだ。

一方、1891年、1月中学教頭の西田千太郎のすすめで、松江の士族の娘・小泉節子(1868~1932)と結婚する。

 文通をしていたチェンバレンは、「ハーンさん…あなたがお選びになるべき道は、言うまでもなく、日本ではごく普通に行われていること、すなわち全然法律上の結婚はしないでいおくことです。」と送っている。

 チェンバレンは、おそらく行動を共にした外交官アーネスト・サトウ(1843~)の身の処し方がおそらく念頭にあったようである。サトウは1867年に武田兼と結ばれるが結婚はしていない。

 ハーン自体もニューオリンズ時代はロティの月極めの結婚を憧れもしていが、松江へ行き、小泉節子と生活を共にし、自分とロティの違いをまざまざ自覚させれてしまったようだ。日本はロティの文章(官能的生活)を通して思い描いたよりもずっと心美しい国だったと感じたようだ。

 また節子と結婚し長男を出産して帰化すること(1896年)を決めたのは、かつてギリシアに赴任して現地で出会いその母をすぐにアイルランドに連れていき最終的には家族を捨てていった父親を思い出した頃からロティ的な考えは忌み嫌うようになったようだ。

 更に同国人(ヨーロッパ人)が東洋で土地の女と結婚することをgonativeと呼んで忌み嫌った時代だったが、ハーンはネイティブの一人になり、節子とも日本語で対応したようだ(ハーンさん言葉という特別な文法での会話だったよう。但し日本語自体はほとんど読めなかったよう)。

 そんな当時としては珍しい結婚と帰化であったため、チャンバレンもハーンの国籍問題についてあまりにも質問を受ける事が多いので、後には著書『日本事物誌』に特に注を添えハーンの帰化の年その他を明記したほどだったようだ。※5

 11月、熊本市の第五高等中学校(校長は柔道を創始した後の嘉納治五郎)の英語教師となる。

1894年、神戸市のジャパンクロニクル社に就職し、神戸に転居している。

この年以降1年に1冊の割合で、日本について公刊している。在日14年で13冊の著作を最終的に書く。

1896年(明治29年)、1月神戸在住当時に小泉八雲として帰化願が許された。8月に東京にでる。※5

■④帝国大学での講義■

1896年、9月帝国大学で英文学の講義を担当(チェンバレンが帝国大学にいたのは1886年~1890年)。

 外山正一文学部長(加藤弘之は1893年に学長を辞している)の尽力で特別に外国人教師待遇の月棒400円となる。但し、この時点では外国人教師ではあるが国籍は日本人であった。※5外山正一は、かつてはアメリカのミシガン大学で学び、スペンサーの特に社会学の見方を重視し「スペンサーの番人」と呼ばれる人であった。またハーンのアメリカ時代からの中国やクレオール伝説などの怪談などをまとめた作品も読んで評価しており、その延長上でハーンを推薦したようである。

 ハーンは現在の新宿区に転居している。

 上京してから後は、西洋人と交際することがにわかに減ってしまったようだ。それはハーンの帰化の批判から避けるためと、人妻を捨てる在日西洋人とは突然つきあわなくなる一刻さからとも。※5他には、東京帝国大学の講義は必要以上に労力を使い、長男の勉強も決まった時間ハーンが教えていたため、それに加え執筆に集中するたちから他の人と接する余裕がなかったとも。

 松江・熊本時代には民族的関心がまだ強く、それだけに土地の人とも交わっていたため、そのような著作が多かった。しかし、東京時代は再話物が主流を占めたようだ。節子が俥で古本屋をまわって昔の物語類を買い集めてはいろいろ読んで聞かせる。そして自己流に書き直していったようだ。

 世間との交際はマクドーナルド(米国海軍主計のミッチェル・マクドナールド)や雨森信成らの友人に限定し成るべく絶ったようだ。またそのような再話物が増えたため、妖怪変化の類を頭から認めぬ冷笑的なヴォルテールの徒チェンバレンとは疎遠になったようだ。※5

 チェンバレンの『日本事物誌』第六版によると「私が持っていると彼(ハーン)が勝手に思いこんだところの超人的な美徳や才能が実はありもしなかったことに、彼はある日突然気がついた。私がハーバート・スペンサーのあの大冊の書物を三冊か四冊しか読んでいないこと―その書物の中でスペンサーは星雲から下は(上は?)人間やその事業にいたるまで説明している―そして残りは簡略版ですませていたことを発見した時、私たちの間に危機が訪れた。ラフカディオにとってスペンサーは神のごとき預言者だったからである。…その日から私たち2人の友情は破れた。…それからは遠慮して近寄らず、遠くから見守るだけであった。」とある。※5ハーンは、他人のことを必要以上に理想化して、それと違うと憤慨するエピソードは妻節子の話などからも受け取れる。

1898年、チェンバレンはこの年の『日本事物誌』第三版にてハーンを評価してる文を入れる。※5

 またこの年に東京帝国大学文科大学長は井上哲次郎(スペンサーの愛読者で1880年代にスペンサー宅を訪れ、1882年には外山らと「新体詩妙」を発表)が務めている。

1900年春に、ハーンを招いた外山正一は亡くなる。

1903年、東京帝国大学を退職(後任はイギリス留学後の夏目漱石)。ハーンの一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こる。(Wikipedia「夏目漱石」)。

 別にハーンの退職理由として書かれたものではないがチェンバレンの『日本事物誌』第六版で「日本政府がこの外人(ハーン)を雇ったのは、西洋の世論が日本の近代化の努力を好意的に評価してくれるよう、ハーンが文筆でもって宣伝してくれるだろうと信じたからである。ところがそれとは反対に、ハーンは日本の近代的変革を罵ってやまなかった」とある。

1904年、早稲田大学の講師を務め、この年に狭心症により東京の自宅にて死去。

【3章・日本語研究をした王堂チェンバレン】

 幕末あたりから明治にかけて、出島に駐留した外国人が中心だった日本研究(シーボルトなど)が、多く来日してきた宣教師(ヘボンなど)に代わり、更にはお雇い外国人や外交官も研究するようになってきた。特に明治維新後の1870年代にはイギリスの駐日大使のパークスが日本研究を奨励したため、英国外交官による日本研究が進んだ(アーネスト・サトウやディキンズなど)。

 丁度そのような中に療養の名目で来日してきたバジル・ホール・チェンバレンはもともと多言語を話せたこともあり、日本語に非常に興味を持ち。日本人に『古事記』や『万葉集』などを習い、1882年には英語版『古事記』を出版している(小泉八雲が来日する要因になる)。更には1886年に東京帝国大学の「日本語学及び博言学(言語学)教師」として招聘されるまでになった。1890年の『日本事物誌』は、日本人が海外に行った際、日本を説明するほどのバイブルになったほどであるようだ。

■➀出生:フランス・スペイン時代■

1850年生まれで、ハーンと同じである。

 英国海軍の提督の長子として生まれた。父方も母方も英国海軍の幹部を輩出した名門の青年紳士。父はウィリアム・チャールズ・チェンバレン(William Charles Chamberlain1818-1878)で1860年代に地中海において軍艦ラコーンとレジスタンス(Racoon and Resistance)の指揮を執り、更にはアジアの司令官となったようだ。※5

 母の父はバジル・ホール海軍大佐で、広く旅行した人で、相当な数の著書があるようだ。

 『北米旅行記』に関してはアメリカ合衆国に関する最も権威のある著作のようだ。更に、琉球諸島と朝鮮の沿岸地方を最初に訪問したヨーロッパ人でもあるようだ。帰りの途中で彼はセント・ヘレナ(1815~1821に幽閉されている)に立ち寄りナポレオンを訪問している。曾祖父(父の父の父)はブリエンにあるフランス士官学校(ナポレオンは1779~1784に通う)でナポレオンと一緒に学んだためのようである。

 その後1825年~1826年には、祖父と祖母でアメリカ合衆国の旅行もしている。母はドイツ語を喋れたため、母からチェンバレンはドイツ語を習ったようだ。

 1856年に母親の死をきっかけに祖母(父方)のフランス・ヴェルサイユに住む。

ヴェルサーユの国際的な環境の中で育てられた。そのため幼少の時から英仏両語を母国語のように話したようだ。

1868年(18歳)、1年間スペインでスペイン人の間だけで暮らす。眼病と咽喉の慢性的疾患のために悩まされ続け、療養も含めマルタ島や日本へ訪れることになる(移動できたのは親が英国海軍提督のため人脈があったためのよう)。

■②来日■

1873年(23歳)に来日。横浜へ。このときは、日本に30年以上留まることになろうとは思わなかったようだ。

 ただ日本に留まることになった理由としては➀日本の魅力、②父の心ならずも銀行に入れされたように対して、自由に自分の人生を生きたいという願いと、父の介入を受けない場所であったためのようだ。

1874年(24歳~1882)で海軍兵学寮の教師。

 築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校で1888年には広島の呉付近に移動)も英国将兵の指導の下に開かれた。その海軍兵学寮で文官として英語を教える。上級生にはサウジーの『ネルソン伝』(18世紀末から19世紀初頭に活躍しナポレオンとの戦いが有名)を用いて英国海軍の規律を日本へ伝えようとしたようだ。家柄もあり規律を教える説得力があったようだ。※5

 チェンバレンに教わった生徒の一人に海軍兵学校(9期生)の木村浩吉がいる。咸臨丸で渡米した木村摂津守の子で1870年横浜の早矢仕有的(諭吉門下)の塾(有的が丸善を創業した翌年)に入った後に。

■③パークスの日本研究奨励■

 1873年は丁度在日外国人の間で本格的な日本研究の気運が高まりつつあるころだったようだ。

 日本研究の歴史は日本にきた外国人の性質によって変容している。

 1859年に日本にプロテスタントの宣教師が到着した初めの年であった。ただし1873年のキリスト教禁止の高札の撤去までは、彼等の宣教師活動には大きな制約があった。そのため、彼らはしばらくは日本語や日本文化を研究し、将来の宣教活動に備えることにかなりの力をそそぐ外はなかったようだ。ヘボンの和英語林集成は、その成果の一つであったようだ。

 その後、初代駐日英国公使のオールコックが1863年に『大君の都』(The Capital of Tycoon)を、日本人通訳の助けを借りて苦心のすえ日本語文典をまとめ上げる。

 また第二代目駐日英国公使のパークスが1865(~1883)年につき、部下の日本研究を奨励している。

 その後、1869年頃からは外国人、商人が多く日本に入ってくる。

 更に、1872年頃に明治政府の西洋を模範とした近代政策のためにお雇い外国人がこの前後から多数来日してきたため、在日外国人の間で日本研究のための団体が組織される。

 1872年にAsiatic Society of Japanが結成された。日本と中心にアジアを研究することを目的に英米人を中心にした在日外国人の間に生まれたものである。同じく1873年には在日ドイツ人もアジア協会が組織された。更に横浜在住の外国人の間で「アジア協会」が設立されAsiatic Societyもそれを支持している。

 商人に比べてお雇い外国人、特にお雇い教師は、3年前までほとんど商人だったのに比べてより広い知的関心の持主であったと言えるようだ。

 ただ最初に日本に来ていたのがプロテスタントの宣教師であったため、Asiatic Society of Japanの第一回年次総会(1872)に選出された新役員は会長がヘボン(J.C.Hepburn1815-1911)で副会長ブラウン(S.R.Brown1810-1880:フルベッキなどと来日した宣教師)がついている。

 しかし、その後できた「日本アジア協会」などに組織された在日外国人の日本研究の旗手になったのは初期においては、お雇い外国人でもなく、宣教師でもなく、外交官、それもイギリスの外交官であったようだ。

 特にイギリスの外交官であったのは、イギリスが早くから対日政策は日本についての正しい情報に基づかなければならないこと、また日本について正確な情報を収集するためには日本語の知識が不可欠であることを見てとったことにもよるようだ。

そのためアジア協会の第一次年次総会の副会長の一人はブラウンだが、もう一人にパークス(Sir Harry S.Parkes1828-1885)の名が、更に五人からなる理事会(Council)の一人にアーネスト・サトウの名があり外交官の名前がある。
 後にディキンズ(F.V.Dickines:1873年のマリア・ルス号事件や後に南方熊楠と『方丈記』を訳す)とチェンバレンら共著の『パークス伝』では、「例えば、サトウ氏が古い日本の歴史書を読んだことによって、サー・ハリーは将軍ではなく正統なる元首としての天皇の側を支持すべき理由が分かった」と外交官の成果がある。基本的にはパークスの方針が日本研究を促進させていたようだ。

 1875年のサトウのアストン宛の手紙では「日本語の知識なくして昇進なし」といった規則が領事畑の外交官を縛っていたようである。また駐日イギリス外交官は比較的ひまがあったことも要因のようだ。

 ただし1880年、サトウからディキンズ宛の手紙では、日本研究と外交官としての職務がさしたる有機的な関連を持たなかったこと、日本研究者として認められることと外交官として認められることが二つの全然別のことになっていた実情が書かれており、サトウなどはモチベーションが低い面もあったようだ。※7

■④チェンバレンの日本研究■

 しかしサトウに比べチェンバレンは日本研究に大きな喜びを感じたようだ。

 1873年にチャンバレンは日本到着後すぐ、パークスと知り合っている。※7

 浜松の藩士・荒木に就きて、歌物語の講義を聴き、『古今集』を学ぶ。さらに鈴木庸正に就きて、『万葉』『枕草紙』を学び、その後『古事記』を学ぶ。

 『古事記』そのものよりも本居宣長の『古事記伝』のphilologocalな研究や解釈により強烈に惹かれたようだ。徳川時代の日本文献学が、西洋の文献学に比べて遜色ないほど高度に発達していたことには真に驚いたらしい(近世の橘守部も読む)。※5

1879年、会津へ出かける。

 アーネスト・サトウ等と一緒に日本の国中を探索して歩くのに多くの時間をかけているようだ。

目的の一つとしては方言に関する関心から、もう一つは東京の蒸し暑さから逃れるため。山歩きに楽しみを見出していた彼は、地方の山奥まで訪ね歩いた最初の西洋人であるようだ。※9

1880年、『日本人の古典詩歌』(万葉集、古今集など)を出版。

1880~1881年短い第一回目のヨーロッパへの帰国。

 ジュネーヴ大学自然科学を学ぶヒューストンを訪ねる。「以前はほとんど道の人間」とヒューストンは言っていた。但し、交友自体は第二回目からであったようだ。※5

1882年『古事記』を英訳。

 日本アジア協会で発表し、翌年活字化している。

 訳者序文には、当時の政府筋のいわば公式見解というべきものは、神武天皇以降の時代に関する伝承は文字通り歴史的事実である、ということであった。一方、チェンバレンは反対する立場に立つ。※7

 このように日本を批判的に分析するようなスタンスが、今までの日本論からの新しい展開であったようだ。

 『日本事物誌』の“Sebold”の項目で、西洋人による日本研究をまずリードしたケンプファー(ケンペル)やシーボルトなどにドイツ人学者に続いたサトウやアストンなどの英の日本学者が資料の批判的な扱いにおいて新機軸とあるようだ。※7

 この英語版『古事記』を1883~1884年ごろニューオリンズでハーンが読み来日のきっかけの一つとなっている。

■⑤マックス・ミュラーの影響■

 1880年頃、イギリスに一時帰国し、オックス・フォード滞在中に比較神話学者マックス・ミュラー(比較言語学や比較宗教学などのベースを作りこの頃までにはイギリスにおいて大きな影響力を持ち、より人類の思考能力から文化まで考えるためカントの『純粋理性批判』を翻訳していたころ)から勧められて、『古事記』の翻訳に着手した。

 他にもタイラーに宛てた書簡なども発見されるなど、日本研究者としてイギリスの学会に寄与せんと考えていたことが明らかにされている。

 19世紀半ば頃の風潮として、大帝国イギリスでは、職員値主義政策と同時に、世界の未開の国々の文化や風俗、習慣などに多くの関心が向かうようになっていた。東アジアで真っ先に開国した日本について、その「未開の地」を明らかにしようと、ヨーロッパでは『記・紀』に関心が集まっていた。

マックス・ミュラーの「進化論」的な見方として、「未開の地」で古代に書かれた「神話」たちは、それ自体、文化的、歴史的、文学的といったことに何らかの意味があるのではなく、「言語の病」、すなわち「訳の分からない話」とか非論理的な物語として、如何に言語表現が表出していったかという点においてのみ、見るに値するにすぎなかった。

チェンバレンは、「大英帝国」(「性」に対して抑圧的でタブー視しており、『古事記』の「天地の初め」の部分を英語でなくあえてラテン語で訳している)「進化論」が言うまでもなく大義であり、その視点から「未開」の日本を記すことが求められ、その枠組みの中で、一学者として充分に寄与したと言えるようだ。※2

■⑥イギリスの人類学者タイラー、フレーザーの考え方■

前アニミズム

 …人類は文明に達する前には、なにか漠然とした物理的な力、あるいは自然力に対しては異父の感情を抱きがちである。当時の学者たちは、こういう力の信仰とそれに働きかけるための呪術とだけから成り立っていたのが人類の宗教の最も原初的な形態であったとみなした。

アニミズム

 …そこから文化や知能がやや発達すると、霊魂や精霊に対する信仰が起こってくるようです。それがタイラーによって霊魂信仰すなわちアニミズムと命名された段階のようだ。

多神教の段階

 …霊魂とか精霊が次の発達段階で、擬人化されることで、初めて多神教の神々が発生すると考えられたようです。神話はこの多神教の段階にまで宗教が発達して初めて創り出される、と見るようだ。※1

■⑦日本学者としての名声の確立■

1886年(明治19年)(~1890年(明治23年))に東京帝国大学に「日本語学及び博言学教師」(博言学(言語学)および和文学(国文学・国語学)の教師とも)として招聘される。※5博言学は新設された科目で最初の教官がチェンバレンとなる。※7

 講義は、まだ生まれて間もない初歩的な一般言語理論が中心であった。教科書として、彼自身の知り合いでもあったマックス・ミュラーの著書『言語学講義集』(Lecture on the Science of Language)などを用いる。※9

1887年(明治20年)『日本小文典』を出版。この本は訳者の名前がこの文部省の出版物にはどこにも出てなくチェンバレン神話が発生したようだ(岡倉由三郎(天心の弟)『チヤムブレン先生を憶ふ』にあるよう)。世間はそれ程この英国学者の日本語及び日本文の造詣を信じきっていたようだ。

1890年、退職後約20年間箱根宮ノ下の富士屋ホテルで過ごしている(執筆による将来の収入の目途がついたようだ)。そこに一万冊にものぼある蔵書。弱視のため英語を朗読してもらう(上田敏や杉浦四郎に)。

 『日本旅行案内』(Handbook for Travellers in Japan)出版。サトウとホーズの『日本の中部・北部地方旅行案内』を基にしたW.B.メイスンとの共著。※9

『日本事物誌』Things Japaneseを執筆。

 この年の8月にハーンが来日していて、ハーンに島根の教員を手配し、この年から翌年が特に密に文通をしている。

1891年(明治24年)アイヌ語及び琉球語に関する研究。※5

【4章・弟ヒューストンとの交流】

 多言語を話せたことから来日してから日本語や日本に精通したバジル・ホール・チェンバレンは、約30年間日本にいたが徐々に定期的にヨーロッパに短期間帰国するようになる。

 そして、ほとんど面識がなかった弟ヒューストンと交友するようになる。弟ヒューストンはワグナーが亡くなった後にワグナー家と関係を深め、更にはドイツ至上主義を唱えるようになり、ときの皇帝ヴェルヘルム2世(ビスマルクを失脚させた人でもある)とも交友を持つようになり、最終的にはヒトラーの思想にも大きく影響を与えたようである。

 そんな弟ヒューストンをチェンバレンは、学問的スタイルには大きな感銘を得たものの、思想についていけなくなったりしている。

■➀弟ヒューストンとの交友■

1880年に『日本人の古典詩歌』(万葉集、古今集など)の英語で出版し、1882年に英語版『古事記』を出版し、更には1886年(明治19年)に東京帝国大学に「日本語学及び博言学教師」として招聘されたバジル・ホール・チェンバレンは、1890年(明治23年)に退職した。

その後、執筆による将来の収入の目途がついたためか、退職後約20年間箱根宮ノ下の富士屋ホテルで過ごしている。

そんな矢先に、日本を紹介し体系的にまとめた『日本事物誌』Things Japaneseを執筆している。

 更には、この年の8月にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が来日していて、この年から翌年にかけて密に文通をしている。それは、ハーンが英語版『古事記』を読んだ事が来日の大きな要因の一つであり、さらには日本学の大御所としてチェンバレンが認識されていたため、新しい日本論を書こうと思っていたハーンが望んだ面が強いようだ。

チェンバレンはハーンに島根の教員を手配していたりする。

 一方、この頃からほとんど面識のなかった弟ヒューストン・チェンバレンとチェンバレンは深く交流するようになる。

 弟ヒューストン・チェンバレンとは、チェンバレンが1873年に来日して約30年ぶりに1880~1881年にかけて、短い第一回目のヨーロッパへの帰国した際にジュネーヴ大学自然科学を学ぶヒューストンを訪ねることから知り合ったようだ。「以前はほとんど道の人間」とヒューストンは言っていた。

但し、交友自体は第二回目のヨーロッパへの帰国からであったようだ。※5

■②ワグナー家とドイツ至上主義を結ぶ弟ヒューストン■

1892年第二回目里帰り、ロンドンではじめてワーグナーの歌劇を鑑賞。おそらく「ニーベルンケンの指輪」。夏で弟ヒュースケンの手配でパイロイトの音楽祭でワーグナー芸術と本当に出会ったようだ。

 丁度、弟のヒュースケンは、最初の単行本『リヒャトルト・ワグナーの劇』(1880年後半から雑誌などに発表していたものをまとめる)を出版し、ワグナーの未亡人にも求められ、ワグナー信奉者の中で重きを置かれる存在となってたようだ。

1893年、ハーン宛で『極東の魂』The Soul of Far Easy 1888,パージバル・ロウエルPercival Lowell 1885-1916の「非人格性」impersonalityといた考えからから演繹的に万事を説明しようとするような傾向を批判している。※7

1894年、ハーン宛の手紙では弟の「フランス文学への心酔」に触れている。※7

1896年、夏・パイロイト音楽祭でヒューストンを通じてワグナー一家にチェンバレンが紹介を受ける。※7

1897年3月、根強いホームシックで日本へ帰国している。※7

1898年、チェンバレンはこの年の『日本事物誌』第三版にてハーンを評価してる文を入れる。

1899年、ヒューストンが『19世紀の基礎』を出版(ウィーンで刊行)。

 近代のあらゆる達成はことごとくチュートン(ゲルマン)系の手になるものと主張したようだ。ギリシャ・ローマの古代から中世の暗黒時代を経て現代西洋の文明を築き上げたものはアーリア人種であり、その代表者がすなわち今のドイツ人である、とする世界史論が出たようだ。ルッター、ダンテをゲルマン系とし、キリストもアーリア人として、パウロがユダヤ化したとした。

 この頃のドイツは、ナポレオン3世を破りドイツ統一をなしたヴィルヘルム一世の後、99日だけフリードリヒ3世(長女ヴィクトリアと結婚し、ビスマルクはヴィクトリアを「イギリス女」と称す)を経た後、1888年にヴィルヘルム2世が帝位につき、1890年にはビスマルクが失脚した時代である。普仏戦争でフランスが敗れ、ドイツが「世界帝国」として擡頭しつつあった時期、内外で非常な反響を呼んだという。

 ヴィルヘルム二世は、自分の世界観がチェンバレンの世界観と相重なり、それに共鳴するという、稀に見る精神の高揚を覚えた。こうして文通と交際が始まったようだ。※5

 ゲルマン人とは何かを述べ第六章「ゲルマン人の世界史への登場」で反ユダヤ主義的であったようだ。

 ヒューストンのドイツにおける名声を確立した著作にもチェンバレンは関心をもったようだ。但し、チェンバレンがドイツ至上主義的見方に与したり、ワグナーのドイツ至上主義的世界観に影響を受けた形跡はないようだ。※7

1902年、『日本事物誌』第四版。

1904年、『19世紀の基礎』を印刷前にイントロダクションをチェンバレンの意見に従って三分の一削除している。※7

1905年、『日本事物誌』第五版。

 「日本関係書」の項で、ハーンを『皇国』Mikado’s Empireグリフィスの次に読むべき重要な著作として紹介している。「1894『知られぬ日本の面影』1895『東の国から』1896『心』―細部における科学的正確さが、細部で柔和な華麗な文体。ハーンは誰よりも深く日本を愛するがゆえに、今日の日本を誰よりも深く理解し、…させる。」とあるよう。チェンバレンと対立した点は「ヨーロッパは自分のことは自分で始末できる」。日本は西洋を必要とした。ところがそれに対して西洋は東洋を無視する事ができた点のようだ。※5

 ヒューストンが『イマニエル・カント』を出版していて、チェンバレンは一番ヒューストンの著作の中で高く買ったもののようだ。※7

 自分の教え子たちが主導した日露戦争における日本の勝利をやはり祝福せずにはいられなかったに相違いない。この第五版で「黄禍論」を批判している。ロシヤを打ち負かすと、西洋列強の日本に寄せる関心も一段と高まった。※5

1906年3月9日サトウ宛の手紙で、チェンバレンが精神的にヨーロッパに回帰したという従来の見方の一番の支えとなる文、「I am on my way home- perhaps for the last time」が書かれる。従来は日本を去りヨーロッパに帰ると解釈されていたが、本来は「ヨーロッパに帰るのはこれが最後かもしれません」ともいわれる。※7

1908年、エヴァとヒューストンの結婚後パイロイトにヒューストンは住み着く。チェンバレンは弟が「ドイツのものすべてが、外のところにある何よりも彼の目にはすばらしく映るようになったのでした」と書く。(1915.10.31チェンバレンが杉浦宛にて)。※7

 自分の健康状態に対する悲観ゆえ、日本学者としての経歴は終ったという感じを持ったようだ。仕事がないならヨーロッパへ永住も考える。※7

1909年、帰欧の途、チェンバレンはアメリカを廻り、シオドア・ルーズヴェルト大統領から食事に招かれて日本事情についていろいろと説明したようだ。ロシヤに勝った日本人の力の由「Because they have got ideals, Sir.」としている。※5

1910年、「本と言えば、今年は私は丸々ニーチェに捧げました」とヒューストン宛に送っている。

 最後に日本で過ごしたとき、韓国併合と大逆事件が悪しき古き専制的やり方への回帰と感じ、この「幻滅」があってヨーロッパ永住への決心を固める。※7

1911年、後進の指導もあり、東京帝国大学名誉教師の称号を得る。岡倉由三郎は教え子で、柳田国男は書いた物を通じて深い影響を受けて民俗学的業績に敬意を表しているようだ。

 蔵書などを処分し、日本を最終的に引き上げる。※7

 ジュネーヴに居を定める。※9ジュネーヴで新渡戸稲造が『武士道』で有名になる時、日本学に精通していたチェンバレンは『武士道』は日本の一つの価値に過ぎないと評したようだ。

1912年、ヒューストンが『ゲーテ』を出版。

 チェンバレンの評だと、ドイツが超大国となったとき、ドイツは自己のヨーロッパと世界に冠たる地位を象徴する金ピカの英雄を必要とした。(フレデリック大王やルッター、カントではなく)彼を除いてゲルマン民族の中にその役を勤めることの出来る人間が一人もいなかった。と述べているようだ。

 ヒューストン自身が認めるように「全く主観的に」対象にアプローチしたこの本のゲーテ崇拝的調子があまり好ましく感じられなかったのであろうようだ。※5

■③弟ヒューストンとの絶好と死去■

1914年、ヒューストン宛。

 ヒューストンが送ってきた彼の雑誌掲載論文を読んで、ヒューストンが自国イギリスの完全な敗北を望むと言っていること、および、彼がイギリス国王(ジョージ5世)を「恥ずべきぺてん師」と呼んでいることに心が痛んだことを述べる。

9月20日の杉浦宛では、私には正義は全くフランス、ベルギー、イギリスの側にあるように思えます。と述べているようだ。彼は今の世代の著作家の他の誰よりも、ドイツ人の現在の攻撃的な気分の形成を助けたのです。もちろん、前の世代にもニーチェとか、トライチュケとか、その他2,3の人がいましたが。とある。※5

ヒューストンの『戦時論文集』の中の『独逸の自由』をケーベル先生が感激している。※5ケーベルは1893年から帝国大学でドイツ哲学を中心にこの年まで教えていた。

またこの文集の中の『独逸語』はフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の影響化に書かれたようだ。『独逸語』は当今文明国の語は皆他国語の幹に接木シタルモノ或は2つの国語の妥協に依って成立せる人工的抽象的の言語なれども、独逸語は純潔に独逸民族固有の語とある。※5

1915年、ヒューストン宛の最後の葉書。

 ヒュートンと兄のチェンバレンが絶好状態になったのは、本を酷評したなどということとは関係なく、第一次世界大戦勃発後ヒューストンがドイツ側の戦争宣伝の中で大きな役割を積極的に果たすようになったからだという。※5

 9月2日杉浦宛では「「プロシアの軍国主義粉砕」に乗りだして以来、同じ軍国主義と専制政治がイギリスでも根をはってきてるように見えます」とある。※7

1923年、エヴァを通してチェンバレンとヒューストンは和解。インフレによるワグナー未亡人や弟のヒューストンの経済的困窮(敗戦国を襲ったインフレーションの中で弟一家は経済的に破滅した※5)、寝たきりの病人(半身不随の病気)になっていたことから。送金などをしている。ただ、ヒューストンは、ヒトラーの支持者になっていた可能性も(丁度ミュンヘン一揆の頃)。※7

 水木しげるのヒトラーの漫画には、無名のヒトラーに対して病床のヒューストンが「きみにはなあすべき大きな仕事がある」と予言している。※8

10.7ヒューストンはヒトラー宛の手紙を送っている。ミュンヘン一揆を起こす直前である。『我が闘争』にてドイツの要路の人士がヒューストン・チェンバレンの見識に対sh知恵無関心でいるのを許し難い忘恩として難詰しているようだ。※5

 ワーグナー家の人びとをヒットラーに結びつけ、パイロイトをナチスの「聖地」と化する上で、先駆的な役割を演じた人物もまたこのヒューストンだったようだ。※5

1927年、1月ヒューストン死去。

  葬式に参列した名士はヒトラー一人だけだった。※8

1939年12月『日本事物誌』第六版

 この版にて初めてハーンへのマイナスなイメージを全面的に出す(東京時代から疎遠になったもののお互いに遠くから見守るカタチで、ハーンの死後もチェンバレンはハーンのプラス評価が主流だった)。

【参考文献】

※1…『国民の歴史』西尾幹二、新しい歴史をつくる会、1999.10.31

※2…『ラフカディオ・ハーンの『古事記』世界』三成清香2013宇都宮大学国際学部研究論集

※3…『ヘルン研究 第二号』富山大学ヘルン(小泉八雲)研究会2017.3の中の『ハーンのニューオリンズ時代における日本との出会い』中島淑恵

※4…Wikipedia「小泉八雲」

※5…『破られた友情』平川祐弘、1987、新潮社

※6…『ラフカディオ・ハーンとハーバート・スペンサー』山下重一

※7…『B.H.チェンバレン』太田雄三、リブロボート、1990.3.20

※8…『劇画ヒットラー』水木しげる、ちくま文庫、1990.7.31

※9…『英国と日本』サー・ヒュー・コックツィ&ゴードン・ダニエルズ(訳)大山瑞代1998.11.10

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